“ゆとり世代”と言われても…社会を支える世代に!教師、起業家、漫才師、救急救命士、看護師…仕事のやりがい、そして、ゆとり世代だからこそ伝えたい思いとは?胸に宿る情熱に迫る
“ゆとり世代”と言われる人たちが様々な分野で活躍しています。彼ら、彼女たちがいま伝えたい思いとは?
出勤するとすぐに宿題のチェックから始まります。
<佐藤千浩さん>
「朝は結構バタバタしていて時間に追われながらいつも過ごしています」
新潟市中央区にある新潟小学校。
2年生のクラスを持つ佐藤千浩さんです。
長野県出身。
大学進学をきっかけに新潟に来ました。
卒業後は一度地元に帰りましたが、この春から新潟に戻り教壇に立っています。
<佐藤千浩さん>
「二学期がきょうから始まります。ここに書いてあります。気持ち新たにきょうから皆さんで頑張っていきましょう。先生もきょうからまた皆さんにたくさんお勉強を教えるのを頑張りたいと思います」
佐藤さんが教師を志したのは中学生の時。
進路に悩んでいたところ担当の先生が親切に相談に乗ってくれたことがきっかけで「子どもに寄り添える大人になりたい」と思うようになりました。
授業が始まると子どもたちが取り出したのはタブレット。
見学した施設で見つけたことをタブレットを使ってまとめていきます。
<佐藤千浩さん>
「自分が子どもだった頃は1年生からパソコンを使っていた記憶はあまりなくて、高学年になってからパソコンを授業の中で使っていたような覚えがあります」
佐藤さんが小学校に入学した2002年度。
学校現場のカリキュラムが変更され、「ゆとり」を重視した教育が本格的に始まりました。
土曜日の授業がなくなり完全5日制に・・
教科書の中身も3割削減されました。
一方で、学校が自由にテーマを選べる「総合的な学習」が新たに設けられました。
特に95年度生まれは小学校から高校までの12年間を「ゆとり教育」で過ごした唯一の世代であることから「スーパーゆとり世代」とも呼ばれています。
<佐藤千浩さん>
「私が小学生だった時は今よりも多分もう少し教科の内容、授業の時間だとか“ゆとり”というか、余裕があったのかなって思っていて、今の子どもたちはたくさん学ぶことがあるし、だからこその楽しさはあると思うんですけど、そういったところはちょっと大変なのかなって思っています」
知識を詰め込むのではなく、子どもたちが自ら考える力を育てる・・
そんな教育のもと成長した世代が、いま教師となって学びの楽しさを子どもたちに伝えています。
< 児童>
「わかりやすく授業で教えてくれる」
「優しいし、たまに厳しく怒る。あとテストの採点がめちゃくちゃ厳しい」
「昼休みにみんなと遊んでくれるところが優しい」
<佐藤千浩さん>
「子どもが分かったとか、できるようになったよっていう言葉を聞くと頑張っていてよかったなと 思ったりだとか、もっと頑張りたい気持ちが湧いてきたりだとか、そういったところがこの教員という仕事のいいところでもあり、やりがいでもあるのかなと思います」
新潟市中央区に事務所を構える「リぺリア」。
代表の室田雅貴さんです。
<室田雅貴さん>
「SNSとか制作に関してはメンバーに任せることが多いので、基本的に提案を作る、新しい何かするところの入り口を広げるみたいなところが多いかなとは思います」
ウェブサービスの開発や運営などを手掛ける「リぺリア」。
室田さんが大学院の時に立ち上げました。
室田さんは群馬県出身です。
生まれた年にWindows95が発売。
インターネットが急速に普及する中で小さいころからパソコンに夢中になりました。
<室田雅貴さん>
「エクセルで絵を書いたりとかプログラムっぽいのを組んでみて動かしてみたりとかが、一番最初の始まりではあったんですけど」
「将来はパソコン使って仕事がしたい」
そんな夢をかなえるため、プログラミングなどが学べる新潟大学に進学。
地方で暮らす中、感じたものがあったといいます。
<室田雅貴さん>
「なぜ東京にみんな人々が集中していくのかだとか東京と新潟の違い、格差もいろいろと情報格差もあれば、いろんな差があるなと感じていたので 少しでもそういった差を減らせるようなことをしたいなっていう思いから会社を起こしているので」
この日・・
室田さんが訪れていたのは
女子サッカーアルビ新潟レディースの試合。
「リぺリア」は今シーズンからSNSを活用し、ファン拡大に向けて取り組んでいます。
選手のウォーミングアップや試合中の選手交代など情報をすぐにSNSにアップします。
<室田雅貴さん>
「僕らの得意分野がデジタルマーケティング領域なのでそこでファンを増やせるような取り組みができたらなと思ってやっています」
会社を立ち上げて7年目。
パソコン好きの少年は、いまデジタルの力で地方を盛り上げようとしています。
<室田雅貴さん>
「出身は群馬ではあるんですけど、新潟本当に好きな街だなと思っているので 、この新潟に関わる人たちを関係人口を増やしていって 、新潟いいよねって思う方々を増やしていきたい」
新潟市中央区で開かれた若手漫才ライブ。
<漫才>
「生まれも育ちも新潟市東区で」
「北区出身、いやなんか北区が下みたいに盛らなくていいんだよ」
「東区北区でしょ?」
「違う東区北区、ちょっと中央区みたいな」
新潟市北区出身のベリオさんと、富山県出身のオダニハジメさんです。
<漫才>
「ゆとりズだと私の方が仕事も露出もある」
「きょうだって密着きてるよ、僕の方がTeNYずっと観てるのに、観てるのにね」
コンビ名は「ゆとりズ」・・。
ふたりはともに“ゆとり世代”です。
<オダニハジメさん>
「僕らが入学と同時に土曜授業がなくなった。円周率3だよねって馬鹿にされたり」
オダニさんは1995年生まれ。
大学への進学を機に新潟市にやってきました。
<オダニハジメさん>
「お笑い芸人に憧れはずっとあったんですけど、なれないよなって自分で勝手にあきらめて」
人を笑わすことが大好きだったオダニさん・・。
学生時代、新潟のお笑い集団ナマラエンターテイメントに所属しました。
そして漫才コンビを組み活動を始めます。
しかし・・。
<オダニハジメさん>
「毎日挫折みたいな感じ、10回ステージに立ったら満足にウケるのって1回か2回みたいな、残りの8回はシーンってなって、毎回心折られて帰る」
同世代の若手芸人が次々と辞めていく中、去年の春、最初の相方とコンビを解散することに・・。
<オダニハジメさん>
「あした辞めよう、あさって辞めよう、みたいな感じでそれもまたずるずるいっちゃってた」
そんなとき出会ったのがラジオのパーソナリティーなどをしていたベリオさんでした。
去年の夏に「ゆとりズ」を結成。
ベリオさんはお笑いにはあまり興味はなかったといいますが・・。
<ベリオさん>
「お客さんの中にいってウケてるとあの感覚ってほかにないかなと。中毒性ありますよね」
<オダニハジメさん>
「自分たちでは手前味噌なんですけど、息合っているねなんて。また来年も来てくださいって、それがお世辞じゃないかは来年わかる」
月に1回、新潟市で開催されている若手漫才ライブ・・。
オダニさんがことしの春にスタートさせました。
漫才コンテストの決勝に進出するコンビを新潟から誕生させたいと考えています。
<オダニハジメさん>
「東京とか行って平日の夜とかに仕事終わりでライブ行けるというのが当たり前というのがちょっと悔しい、それを新潟でできないかと。映画館とかそういうところに行くみたいな感覚でお笑いライブできたらいい、当たり前のものにできたら」
子どもの頃から夢中だった“お笑い”・・。
もっと面白くなりたい・・。
笑いで誰かを元気にしたい・・。
ゆとり世代の情熱が新潟を新たなステージへ導きます。
いつでも出動できるように入念な準備から1日が始まります。
<笠原実季さん>
「AEDのような機械が一緒になっているんですけど、ショックが正常に作動するかどうかを点検をしていました」
新潟市の江南消防署の救急隊に所属する燕市出身の笠原実季さん。
祖母が病気がちだったことから医療関係の仕事に就くのが夢でした。
そして、中学生の時に両親から聞いた自分のこと。
生後間もなく救急車に運ばれたことを知らされたといいます。
<笠原実季さん>
「もう少しでも遅ければ命はなかったと聞いていたので命を救っていただいたんだなと話を聞いて思いました」
救急救命士を目指して県外の大学へ・・
卒業と同時に資格を取得し、新潟に帰ってきました。
準備運動や車両の点検が終わると、実践をイメージした訓練が始まりました。
救急救命士に与えられた任務・・
医師の判断のもと薬剤投与などの特定行為が認められています。
特定行為を行うのは月に数回ほど・・
その時のために手順を確認します。
そして・・
「出動指令、江南区亀田本町4丁目、江南救急」
出動指令は突然やってきます。
救急車へ駆け込み、1分もたたないうちに出発して現場へ。
患者を別の病院へ移す「転院搬送」。
安全運転を心掛けながらも急いで病院へ向かいます。
無事に送り届けることができました。
<笠原実季さん>
「病気でつらい状況の人を適切に病院まで搬送して、その中でできる処置とか少しでも安心させられるようなところが役割だと思っているので、傷病者に寄り添って不安を与えずに安心させて搬送させられるようなところが目標です」
十日町市にある県立十日町病院。
看護師の佐藤瑠美さんです。
<佐藤瑠美さん>
「午後のお熱測ります。失礼しますよ・・ちょっとベッドも倒していこっかな」
この病院に勤務して9年目。
患者のちょっとした変化に気を配っています。
<佐藤瑠美さん>
「急に具合悪くなって、きのう元気だった人が、きょう具合悪いみたいなのもあったり、難しい」
十日町市で生まれた佐藤さん。
6歳下の弟と二人姉弟で子どものころはよく外で遊ぶ活発な子どもでした。
弟は体が弱かったため入院をすることもあり、優しく対応していた看護師の姿に憧れたといいます。
<佐藤瑠美さん>
「弱っているとか病気で苦しんでいる人の力になれれば、そばで支えになれればいいなと思って・・高校の時だったと思います。看護師にしようと決めたのは」
さらに、2004年に起きた中越地震。
十日町市は震度6弱を観測し、当時、十日町病院には次々とけが人が運ばれてきました。
佐藤さんはその時小学3年生・・
自宅に大きな被害はありませんでしたが相次ぐ揺れに備え、数日間は家の外や車の中で夜を明かしたといいます。
<佐藤瑠美さん>
「大変だったけどみんなに支えてもらって乗り越えた記憶はあったので、自分も誰かのために何かできればっていうのはあったかもしれないです」
専門学校で一度、十日町市を離れた佐藤さん。
それでも、育ててもらった地元に恩返しがしたい・・
その思いで十日町市で看護師の仕事をスタートさせました。
4歳と2歳の子どもを育てながら患者に 寄り添い続けています。
<佐藤瑠美さん>
「体の向きはこのままで大丈夫ですか?また変えたいとき呼んでください」
いま最前線で社会を支えているゆとり世代。
歩んできた30年は困難な時代だったと振り返ります。
<佐藤瑠美さん>
「私たちってゆとり世代ですか?でもなんか自分的には全然ゆとってる気はしないんですけど。高校の合格発表の日は3.11東日本大震災があったりでとか、そういう当たり前が当たり前じゃないみたいなのを感じる部分があるので。大事に生きようみたいなのは感じやすいんじゃないのかなと勝手に思ってはいます」
多感な頃、目の当たりにした大きな災害・・
「人に寄り添う」
その思いは人一倍です。